1.適塾門下生「金光廉平」

早島・茶屋町にまつわる蘭方医「金光廉平」について

―プロファイルが明らかでなかった適塾の門人―


岡山県都窪郡早島町 木村 丹(木村医院)

倉敷市北浜町 松田俊悟(元山陽新聞解説委員室室長)

はじめに

 今から166年前の天保8年(1838年)、岡山市足守出身の緒方洪庵が大阪で医学・蘭学塾「適塾」を

主催したことはよく知られている。入塾した636名が自筆で出身地、入塾年月日、氏名を記載した「姓

名録」という名簿が保存されており、その中には明治期に様々な分野で指導者となった福沢諭吉、

大村益次郎、長与専斎、大鳥圭介らの名がある。適塾を顕彰する適塾記念会では門下生調査を

しており、636名のうち400余名のプロファイル(出身場所、生・没年、退塾後の動向、家族・子孫など)

を明らかにした。明らかでない門下生のひとりに「文久辛酉五月廿二日 備中都宇郡早島 金光廉

平」の名前があり1)(図1)、私が早島町に居ることから、その人物像を明らかにするよう適塾記念会の

役員から依頼を受け、ぜひとも解明しようと2003年7月から半年間にわたり調査をした。なお、文久

辛酉は文久元年(1861年)、明治33(1900)都宇郡と窪屋郡が合併して現在は都窪郡という。

 

1.「金光廉平」の調査

 早島町の電話帳を調べたが「金光」姓は一軒もない。役場、お寺、公民館などを尋ね直接的な

ことは不明であったが、早島町に隣接する倉敷市茶屋町早沖に「金光」姓があることを示された。

ある日早沖にある金光という呉服店を訪問し、ずっと以前にこの地で「金光」という医師が診療して

いたこと、その子孫がいること、金光呉服店は子孫の遠縁になることを教えられた。さらに調査を

進め、子孫の方々に連絡し、面会し「金光敬叔(1838-1899)」という名前の医師が浮かび上がった。

子孫のひとりである松浦タカネ氏(曾孫、神奈川県在住)は医師である曽祖父を「蘭方医」を呼んだ。

また住居跡と墓地は、江戸時代に都宇郡早島沖新田村(略して早沖)といわれた同じ地区内に

あることが判明した。

 

2.「蘭方医」という名称の持つ意味

 江戸時代の西洋医学はほとんどすべてオランダから輸入され、オランダ医学を学んだ医師を

「蘭方医」という。明治7年の調べで日本の人口は約3200万人、医師総数は28,262名、そのうち

洋方医(明治になるとドイツ、フランス、イギリスの医学も導入されたため洋方医という)は5274

18.7%2)。多くは漢方医であった。「敬叔」が医師として独立した頃の10年前には「蘭方医」は

さらに少なく、人口7000-000名に対して「蘭方医」一名と推測され、早島沖新田村にはたった

ひとりの「蘭方医」となり、貴重かつまれな存在であったと考えられる。一方、適塾で医学を学んだ

「廉平」は当然「蘭方医」である。

 

3.金光家の住居跡地、墓石、戸籍簿

 金光敬叔の子孫(曾孫)は6名いるが、もはや茶屋町早沖には居住していない。190年頃に

敬叔が住んでいた土地・建物は売却され、現在はアパートが建っている(倉敷市茶屋町早沖369

番地)(図2)。曾孫の藤原雅子氏(玉野市在住)によると、私邸から20-30m離れた空き地が敬叔が

診療をしていた跡地とのこと。但し、現在でも周辺に家屋は散在の状態で医療機関はなく、当時

開業医として経営が成り立つのかなと懸念するような場所である。

 敬叔の墓石(図3)には、“号は蘆村。早島村 三宅惣介の第二子で、金光家に養子にいき佐藤

敬哉の養う所となり、医業を襲い受け継ぎ明治32年61歳で病没”という意味の文字が刻まれて

いる。養父の佐藤敬哉については、墓石の刻文と子孫への伝聞をあわせると、“金光家に生まれ

早島村の佐藤衆甫の養子になり、佐藤家で医学の手ほどきを受け、さらに大阪の華岡塾に国内

留学し、後に早沖に帰り佐藤姓のまま医業を開いた。”となる。確かに、早島町には敬哉が養子に

行ったと考えられる「佐藤」という医院(現在の早島町佐藤医院とは異なる)が大正末まで存在した。

実父 三宅惣介の墓は早島町薬師院にあり、一文字が異なる「三宅宗介」が該当すると思われる。

戸籍簿(藤原雅子氏の許可のもと)では以下のことが判明。敬叔の生年は天保10年(1839年)、

没年は明治32年(189年)。養父は富三(前述の佐藤敬哉の別名の可能性があるが明らかで

ない。生・没年は不明)、養母は繁(1821-1905)。妻は佐藤敬哉の長女で関(1854-1890)、後妻は

紋(1853-1915)。実子は長女の澤(1873-1922)と次女の勢津(1880-?)

 

4.子孫(曾孫)が大切に保存している蘭方医学書および医学関係書

 曾孫の金光一郎氏(山梨県在住)は緒方洪庵が著した”扶氏経験遺訓“と「金光廉平」の署名

入り”醫事骨董録“という医学ノートを所有している(図4)。醫事骨董録は確かに廉平が自分で書い

たものと思われ、安政3(1856)と記載され、適塾入塾前に書いたことがわかる。金光敬叔の墓石

や戸籍簿には「廉平」の名前は出てこないが、敬叔の子孫が“金光廉平のサイン入りノート”を150

以上後に所有していることは、ふたりが同一人物で、幼名を「廉平」といい、後に「敬叔」と改名した

可能性を強く示唆している。

 

5.金光敬叔に関するふたつのエピソード(解剖記録と納税記録)

 明治11年東京醫學會社の醫學雑誌 第403)に肝臓病解剖記事がある(図5)。石坂堅壮

(当時の岡山県の西洋医学の先達者)の指導のもとで敬叔ら計5名が42歳男性 肝臓の寄生虫

疾患患者の遺体を解剖し記録を残している。この様子は「早島の歴史3」“太田晴軒日誌”の明治

10811日の項にも記録があり、周辺から130名の医師が見学に参集し、警備のため警官一名

も出動したとのこと、当時の解剖が大事件であったことが伺える。現在の心臓移植かそれ以上の出来事

であったのだろう。後に、この論文は日本で最初の肝臓吸虫患者の解剖記録とされた4)。さらに、

子孫への伝聞があり、金光一郎氏によると、「腑分けという‘残酷な行為’により金光敬叔に対する

周辺住民の評判が低下し、受診患者が減った。」という。当時の肝臓吸虫の悲惨さについては、

明治24年東京醫學會雑誌5)に述べれており、江島村(明治22年早島新田村と帯江新田村が合併)

では5名にひとりが肝臓吸で死亡したとのこと。この疾患が当時の難病のひとつであり、敬叔は生涯

にわたり地区住民の治療に日夜奮励努力したことと想像できる。

もうひとつの敬叔に関する記録がある。明治23年の岡山県地主録に江島村での直接国税

総納額が示されている6)(図6)。敬叔は28267厘の国税を納めており、江島村では22

番目になる。これだけの納税額があるということは、腑分け騒動により受診患者数は一時的に減少

したかもしれないが、再び評判は良くなり、受診者数は増加したものと考えられる。

 

6.金光廉平と敬叔を結ぶキーワード

「廉平」の名前は墓石にも戸籍簿にも記載はなく、「廉平」と「敬叔」を同一人物とする確定証拠

(直接的な記録)はない。しかし、いくつかの有力な状況証拠があり、五つのキーワードにより

同一人物であると確信する。

1)    「早島」・・・姓名録に記載された「備中都宇郡早島」の早島と敬叔が 早島村に生まれ

早島沖新田村に養子に行った早島。

2)    「年齢」・・・「廉平」は文久元年(1861年)に適塾に入塾。このとき「敬叔」は22歳であり、

入門するにふさわしい年齢。

3)    「蘭方医」・・・廉平は適塾で医学を学んだため当然「蘭方医」である。一方、敬叔は子孫

から「蘭方医」と呼ばれている。当時数少ない蘭方医が狭い地域の中で一致している。

4)    「緒方洪庵著の蘭方医学書(扶氏経験遺訓)」・・・「廉平」は適塾で学んだため、緒方

洪庵の著書を所有した可能性は十分にある。一方、「敬叔」の子孫が洪庵著の“扶氏経験

遺訓”を保有している。

5)    「醫事骨董録という廉平の署名入り医学ノート」・・・「廉平」が安政3年(1856年)に書き

上げた冊子を「敬叔」の曾孫が保有している事実は何よりもふたりが同一人物であることを

示している。

 

7.重要だが不明ないくつかの事項

 1)敬叔の生家(早島村の三宅家)の両親ついてはほとんど不明。

 2)敬叔は何歳で早島村から早島沖新田村に養子にいったか。いつ「廉平」を「敬叔」と改名したか。

3)敬叔の墓石には明治32年に病没と刻まれているが、病気は何か。

4)廉平は1861年に適塾に入塾しているが、いつ郷里に帰ったのか。

5)敬叔の写真は30年前には存在した(藤原雅子氏)が、現在はない。

 

結語

1. 人物像が不明であった適塾門下生「金光廉平」は早島沖新田村(現在の倉敷市茶屋町早沖)の

「金光敬叔(1839-1899)」であることが判明。

2. 廉平が姓名録に記載した備中都宇郡早島の「早島」は、自分が生まれた「早島村」と養子先の

「早島沖新田村」の両者を示すものと思われる。

1. 敬叔は、医師である養父 佐藤敬哉を継承して、二代にわたり早島沖新田村周辺の地域医療に

貢献した。

4.敬叔が石坂堅壮と共に肝臓ジストマ患者の遺体を解剖し、記録を残したことは歴史的なできごと

であり、「蘭方医 金光敬叔(廉平」は地域の医療史に記録されるにふさわしい人物であると考える。

 

本調査を行うにあたり、早島町町役場および公民館の関係者、薬師院および千光寺のご住職、

元早島町教育長岡 敬様(金光敬叔氏の子孫の親戚)をはじめ多くの方々に様々なご教示を

いただきました。

 

参考図書

1) 適塾 No.36 適塾記念会発行 2003

2) 医師の歴史 布施昌一著 中央公論社発行 1979

3) 醫學雑誌 第四拾號 東京醫學會社 明治11年(1878年)

4) 岡山の医学 中山 沃著 岡山文教株出版株式会社 1993

5) 東京醫學會雑誌第五巻 肝臓ジストマ病取調成績 1891

6) 岡山縣地主録 細謹社発行 明治24年(1891年)


図1.適塾の姓名録 「文久辛酉 五月廿二日 備中都宇郡早島  金光 廉平
図1.適塾の姓名録 「文久辛酉 五月廿二日 備中都宇郡早島  金光 廉平
図2.金光家私邸跡(倉敷市茶屋町早沖369番地)
図2.金光家私邸跡(倉敷市茶屋町早沖369番地 ) 

図3.金光敬叔の墓「藘村 金光敬叔  正配 金光関」
図3.金光敬叔の墓「藘村 金光敬叔  正配 金光関」
図4.金光敬叔の曾孫が 所有する医学ノート「醫事骨董録」 「金光廉平」の署名がある。
図4.金光敬叔の曾孫が 所有する医学ノート「醫事骨董録」 「金光廉平」の署名がある。

図5.明治11年の醫學雑誌金光敬叔らが肝吸虫患者を解剖した記録。
図5.明治11年の醫學雑誌金光敬叔らが肝吸虫患者を解剖した記録。
図6.明治24年江島村の 直接国税総納額一覧 金光敬叔は28円26銭7厘 を納め江島村で22番目。
図6.明治24年江島村の 直接国税総納額一覧 金光敬叔は28円26銭7厘 を納め江島村で22番目。